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稲沢貴雄(料理人/「CUISINE」共宰)


Takao INAZAWA(いなざわ たかお) 1980年、神奈川県茅ケ崎市生まれ。高校卒業後、数々の厨房で経験を積み、ワーホリビザで2007年渡仏する。一旦帰国し資金を貯めた後再度フランスに渡り、「弁慶」「LE VERRE VOLE」で勤務。2018年末、元同僚と「DAIDOKORO」設立。2019年7月、レストラン 「CUISINE」をパリ9区にオープン。

 

意固地な自分を解放し

「皿の上だけではない」世界を発見

2019年7月吉日。現在パリでも最も活力のあるエリアのひとつである9区のサン・ジョルジュ界隈から一筋入ったある場所に、ひっそりとオープンしたレストラン「CUISINE」(キュイジーヌ)。一人で厨房を仕切る料理人の稲沢貴雄さんは、長年パリの人気店で経験を積み、いつしか自分の店を持つことを夢見るようになった。念願叶って開店した店で胸を張って振る舞うのは、10年前の自分だったら作ろうとも思わなかった料理だった。

好きなものは趣味にする

小さい頃から車が大好きだった稲沢さんは、「大きくなったら車関係の職業に就きたい」と漠然と思っていた。高校生の時、「車の職業」を知るため、そして「マイカー」を買うための資金集めに、近所のガソリンスタンドでアルバイトを始めた。周りの学友たちは次々とバイクの免許を取っていく中、早生まれの稲沢さんはもやもやしていた。「早く運転したい…」。16歳になるや否やバイクの免許を取得し、早速貯金をはたいてバイクを買った。「嬉しくてたまらなくて、毎日のように乗り回していました」と目を細める。

そんなある日、先輩にこんなことを言われた。「そんなに車が好きなのだったら、あえて職業にしないで、好きな車が買えるような仕事に就いた方がいい…」。

同時期、ケータリングの会社を開業したばかりという得意客に「手伝ってくれないか」と誘われる。仕事内容は、野菜を洗ったりといった基本的なことばかり。それでも真面目に取り組んだ。そうこうしているうちに高校を卒業。進学するつもりはなかったので、就職活動を開始する。



料理の基礎を学ぶ

ケータリングの仕事の方では、事業が本格開始するまでに時間がかかるということだったので、料理の研修も兼ねて東京の外れにあるホテルのオープニングの仕事を紹介してもらった。「整備士の仕事に就くか、そのまま料理の方面で腕を磨くかで迷った。でも思いがけないほど早くにホテルでの内定をもらえたので」、そのまま就職。「料理の仕事」を生業にすることとなった。そもそも料理の仕事のきっかけをくれた方の誘いを断る形となってしまい、申し訳ないと思ったが、「ホテルでの仕事は意外と面白かった」と稲沢さん。オープンしたてと言うこともあって、職場は新卒の集まりのようだった。「洗う、皮をむく…食材の下処理が主な仕事でしたけど、それでも全てが手探りで…」。そこで出会った先輩に、料理の基礎や考え方を学ぶことができた。包丁の使い方やまな板の洗い方だけではなく、衛生概念、仕事スタイルと言った、料理人の哲学のようなことも厳しくも丁寧に教えてくれた。

3年ほど勤めた後、お世話になった先輩の元師匠が働くフレンチレストランに、先輩と共に移る。東京中心部にあるフランス人シェフのフレンチレストラン。それまで本格派フレンチの店で働いたことはなく、もちろんフランス料理の基礎もよくわかっていなかった稲沢さんは、死に物狂いで働いた。



師匠との出会い

ある日、散歩がてら近所に新しく開店したというフランス料理店を訪れた。美味しいし、そして家から近い。そんな理由もあり食後に思い切って「雇ってもらえませんか?」と尋ねてみると、ちょうど調理見習いを探していたようで、すぐに採用してもらえた。

その店が、LA TABLE DE TORIUMI。稲沢さんが「料理的にもいまだに一番影響を受けている」と言う店だ。シェフの鳥海氏は、「美大で彫刻を勉強していた際に訪れたフランスで料理を始めた」異色料理人。あまり下積みを経験しないままシェフになり自分の店を持った彼は、固定概念にとらわれることなく自由に好きな料理を作っている。そして味も見た目もセンスの良いクラシックなフランス料理を専門とはするものの、日本料理も中華料理にも詳しく、知識が豊富だからこそ、様々なアプローチが可能となることを実証していた。


©Fumiko Ichida



約2年間在籍した後、「大抵のことはもうできる」と「勘違い」したという稲沢さん。将来、それまで勤めてきたようなおしゃれなフランス料理店ではなく、大衆的なビストロをやりたいと思い、鳥海シェフの反対を押し切り退職。安くてボリューム満点で美味しいと有名だった都内のビストロ料理店に食事に行き、またその場での猛烈アピールが功を奏して、すぐに働かせてもらえることとなった。


働き方を改める

しかしそんなある日、ある悲劇が彼を襲う。営業の帰りにバイク事故に遭ったのだ。膝は人口靱帯の移植で治ったが、それを境に右足があがらなくなってしまった。それまで「スポーツしか能がなかった」彼は、楽しみのひとつであったサッカーもできなくなってしまったのだった。命に別状なかっただけでも幸いだったが、早朝から深夜過ぎまで働き通しで、4時間寝れたらまだよい方、と「若かったからできたこと」も改めていかなければいけない、と痛感した出来事。もちろんバイクでの通勤は断念。更に4か月ほどの入院を余儀なくされた。「オーナーシェフが、生意気で困らせてばかりいた僕をわざわざ見舞いに来てくれて、治ったら戻ってきてもいい、って言ってくれるんです。それでなくても忙しい店なのに、何か月も待ってもらうわけにはいかない」。せっかく働かせてもらえたのに、まだ一年も経ってないのに…辞めた方がいい。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。そう考えた稲沢さんは、泣く泣く退職願を提出し、リハビリに専念することにした。



リハビリ期間中、藤沢市にある割烹料理店でアルバイトをしつつ、調理師免許を取得。その後、退職する副料理長の引継ぎということで、再度「出戻り」LA TABLE DE TORIUMIで働かせてもらえることになった。

その鳥海さんとの社員旅行で、初めてパリを訪れた。本州からさえ出たことのなかった稲沢さんには、「町の汚さもひっくるめて」何もかも新鮮で、輝いて見えた。しかし、人が声をかけてくれているのに、言い返せない。長年フランス料理を作っているのに、フランス語が全くできない自分に違和感を感じた。せっかくフランス料理をやるのだったら、フランスで仕事をしたい。きちんと税金払って生活できるようになってから、日本で自分の店を持ちたい、と思うようになった。




本場で学びたい

「本当のフランス料理はフランスで、フランス人にしかできないと思いこんでいました。だからせめてフランス語やフランスの文化を理解した上でやっていきたいと思って…」。鳥海シェフには「この前フランスに連れて行ったばかりだろう」と恨み言を言われたが「本場で学びたいんです」と無理矢理説得。そうと決めたら行動は計画的に。新宿の某高級ホテルで1年ほどアルバイトをし、資金を貯めた。こうして2007年、ワーホリビザを手に渡仏を決行したのだった。



以前お世話になったシェフの紹介で、日本人シェフが経営するパリ郊外のフレンチレストランで一年間働かせてもらえることになった。様々な希望や期待を抱いて渡仏したものの、「まるで丁稚奉公のような」生活を送るうちに考えが甘すぎたと悟る。店と寝る部屋との往復ばかりでリアルなフランス人との接点はあまりなく、精神的・技術的に学んだことは多かったものの、「これで終わったらフランスに来た意味がない」と気付いてしまう。だからと言って、紹介してくれた方の手前、仕事を投げ出すわけにはいかない。ワーホリ終了日までの日々がただただ過ぎ去るのを待つことしかできなかった。「お金も時間も喜びもない。僕にとって最もダークな時代」と苦笑した。




皿の上のことばかりではない

この一年の経験は「なかったことにしよう。また必ず戻ってきてやる!」と、早々と決意を心に刻んだ。帰国してから前述の高級ホテルで一年間、資金稼ぎも兼ねて腕を磨いた。再度フランスに渡る計画を練りながら、次なる勤務先選びに慎重になる自分を認識。名の知れた大きい店に雇ってもらって、労働ビザを取ってもらう。数年は同じ職場から更新し、信用されるようになってから、本当に自分が行きたい店に行けばいい。ワーホリ時代に知り合ったパリの旧ホテル日航内にある高級日本料理店・弁慶の料理長に頼み込み、和食の経験は皆無にも関わらず、鉄板焼きのシェフとして出向させてもらえることになった。こうして2009年、念願の再渡仏が叶う。


©Fumiko Ichida



基本が日本料理のフュージョン料理を展開するこの新たな勤務先で学ぶことは、なにもが新鮮だった、と稲沢さん。出汁の取り方から、基本のソースの作り方まで、今までやってきたことと異なることが意外にもたくさんあったのだ。

目の前で調理してくれる(鉄板焼きの)物珍しさから、大統領レベルの要人もが訪れる有名店。高額なため、気軽に立ち寄れるタイプの店ではない。客層もフランス人か観光客がほとんど。中でもアラブ系の客が多く、「肉はビヤン キュイ(ウェルダン)、魚は鱗なし、豚は食べない」との注文が入るのも日常茶飯事。小さな子供にカウンター越しに札束でチップを渡され「なんだか悲しくなって」裏で泣いたこともあった。

日本人のためではない日本料理。刺身用に甘い醤油を注文してくる客、味見もしないでとりあえず料理に醤油をかける客…昔からフュージョンはやりたくないと思っていたのに。和食ではない料理に醤油を使うのが許せない自分がいたはずなのに…モヤモヤは溜まっていったが、一方で思いがけない発見もあった。鉄板焼きカウンター越しで客と話しながら料理をすることは、反応が目の前で感じられる大変貴重な体験となったのだ。


「調理場で皿の上のことばかり考えるだけが料理じゃないんだ…」。

料理やレストランに対する考えが徐々に変わっていった。そしてこの頃から、自分は何のために料理をしているのかと考えるようになった。



「これはこうだ」が壊される

世界が広がったのは間違いない。それでもやはり環境を変えたい気持ちは常に抱いていた。「フランス人しかいない、日本語も全く通じない店で働いてみたい」。そんなある日、友人宅で紹介されたのが、パリ10区にある人気店LE VERRE VOLE(ル・ヴェル・ヴォレ。以下LVV)の日本人シェフだった。2週間後に本帰国するため後任の人材を探していると耳にし、その足で店主に話を聞きに行った。すると、その場で正社員として雇用されることになったのだ。


Le Verre Volé のスタッフたちと


自然派ワイン店の草分け的な存在となるLVVが、「つまめる程度の店」からビストロに転換して間もない頃。ありとあらゆることが予測不可能の「ぶっちゃけ本番」状態で大変なことだらけだったが、超人気店となるにはそう時間がかからなかった。フランス人だけの職場に、今まで作ろうとも思わなかったような料理が小さな小さな厨房から上がっていくのを見ていくのがとにかく楽しかった、と稲沢さん。和食-エスニック-アジア-フレンチ…フュージョン料理を作るのは、「はじめは嫌でたまらなかった」と言うが、客も同僚も喜んでくれるのを見て、素直に嬉しいと思えるようになった。それは、料理を作ることに対しての考えを根本から見直すきっかけにもなったのだという。何のために料理をやってるんだろう。どんな理屈を並べても最終的に行き着くところは、食べてくれる人に喜んでもらいたいという願い。それができてはじめて自分も生活していける…

「ふっきれたんでしょうね」としみじみ。スタッフの入れ替わりは早く、年下の駆け出しの料理人が新しい風をどんどん入れてくれる。色んなやり方があるんだということを受け入れている自分がいた。「これはこうだ」と思っていたことが壊された。「意固地になっていたことも、立ち位置をずらしてみるだけで上手くいくことがよくあった。その度に「そういうことか」って思えた。解放されたみたいでした」。




いざ、自分たちの店を

こうしてLVVに努めて2年も経つ頃には、「これからもフランスで生きていきたい」と真剣に思うようになった。後の共同経営者となるソムリエのブノワに「いつか一緒に店をやろう」と言われるようになったのも、ちょうどこの頃。「からかっているのか」とあまり相手にしていなかったと言うが、そんな「冗談」が数年後には現実となることを、当時の稲沢さんは想像すらしていない。その後ブノワが他の店に移ってからは、たまに顔を合わせる程度だったが、稲沢さんがLVVを退職すると決めた一年ほど前から具体的に話を進めるようになる。


©Philippe Garcia / Architecte Federico Masotto


 2017年10月に6年間務めたLVVを退職。POLE EMPLOI(フランスのハローワークの様な機関)で、事業を始めるための資金援助を受ける手続きを取り、開業に向けてのトレーニング講座(無料)を受け、また銀行から融資を受けるために商工会議所にアドバイスを求め(1年間-有料)そこで紹介された弁護士と共に事業計画を練る、など着々と準備を進めた。そして物件探し。条件は、稲沢さんとブノワが暮らす「右岸」でレストラン激戦区の10区・11区以外とした。数件のレストラン物件専門の不動産会社を通じて100軒近くの物件を見たがなかなかピンとくるものがない。それでも根気よく探しているうちに「理想の店」に出会った(LVVでお世話になった食材業者の社長が紹介してくれた)。程よいサイズで、地下の保管スペースもLVVより広い。ガス・電力・換気と必要な設備は既にあり、調理場より広いウォークイン冷蔵庫もある。大掃除して、厨房設備を整え、ホールの内装さえ一新すれば開業できる… 資金繰りは思っていたよりも大変だったが、銀行からの融資も無事おりることになり、テナント契約を結ぶ運びとなった。




みんなとのスタートライン

フランスでの行政の手続きや銀行での面接…そんな時、フランス人の相棒がいてどれだけ心強かったことだろう。ブノワは決して派手なタイプではない。イケイケの営業マンではない。優しくて愛嬌があって、温かみがあって、皆に愛される癒し系タイプだ。黙々と仕事に打ち込む稲沢さんとは正反対のタイプ、つまり補い合っていける相手なのかもしれない。

 「二人とも小心者なので、慎重に何でも話し合って決めています。時間はその分かかるけれど、なんとかいくもんです」と稲沢さん。その他にもフランス人の共同経営者がいて、「良かった」と思えることがある。「フランスでやるにあたって、フランス人の意見はとても大事。僕とはやっぱり文化が違うから。でもいつも最終的には、国籍は関係ない人間同士の話をしているみたいです」。


 そんな「初心者」経営者の二人を支えるかのように、たくさんの友人が助けてくれた。今までお世話になっていたワインの作り手さん達、食材生産者はもちろん初めてレストラン向けにお皿を作ってくれる人、野菜を作ってくれる人、今年からワインをリリースし始める人、内装デザインを手伝ってくれた人…それはみんなでの「初めての作品」、みんなとのスタートラインみたい、と嬉しそう。


 では、念願の「自分たちの店」に込めた想い、コンセプトは何ですか?そう聞くと稲沢さんは少し困った顔をした。「そんな大したことは考えていないんです」。


©Marielle Gaudry



その時自分が食べたいと思うものを作る

毎朝、各生鮮食材業者がメールなどで送ってくれる食材リストに目を通し、品質と値段で検討した上で実際に入れてみたいと思う食材を選ぶ。そこで初めて次の日のメニュー内容が決まる。リストがないとイメージが湧かない。だから料理のコンセプトと言われてもピンとこない。「自分が食べたいと思うのものを作っているような気がします。そうでないと作っていても楽しくない。理由が曖昧だったり、めんどくさいと思いながら作った料理を出すのは、嫌なんです」。



 もちろん拘りもある。厳選した業者から仕入れてもらう食材は全てが旬のもの。稲沢さんは肉や魚をなるべく「丸ごと、骨付き買い」し、できるだけ早く、もしくは適切なタイミングで使い切ることを意識している。適切な量を注文しようとする時点で既に「僕の料理は始まっているんです」。


 それは、日本で修行している間、先輩に叩き込まれたことであり、また現代の料理人としての使命だと確信しているから。「味にも響くんです。とても自然なことなので」。「僕の料理で世界を変えてやろうとか、そんな仰々しい望みがあるわけではないんです」。それよりも、「今日は食事作るのが面倒だからちょっと外食しよう。昨日はあそこにいったから、今日はタカオ達の店に行こう」、そんな日常的な、食堂的な使い方をしてもらえるような店にしていきたい。


 屋号の「CUISINE」(キュイジーヌ)は、前店舗から引き継いだ。この言葉には、二つの意味がある。ひとつは「料理」。しかし「料理」を語るなんて偉そうなことはできない、と二つめの意味の「台所」という響きの方がしっくりくるという。経営のために立ち上げた会社も「DAIDOKORO」と命名したことだし、「この場所(厨房)から、僕が今食べたいと思う料理を食べて喜んでくれるお客さんの顔が見れたら嬉しい」と笑う稲沢さん。


 お世話になった人々をもてなす会で振る舞われた品のひとつに香ばしい唐揚げがあった。台所で忙しそうにするお父さんを見つめる男の子が、誰よりも嬉しそうに頬張っていた。




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稲沢貴雄さんの店


キュイジーヌ

©Philippe Garcia / Architecte Federico Masotto


CUISINE

50, rue Condorcet 75009 Paris

電話番号 : +33 1 44 63 75 64

メトロ: Anvers, Saint Georges

restaurantcuisine.fr

営業時間 12時 – 14時, 19時30 – 22時

定休日 土日-月曜昼


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稲沢貴雄さん所縁の店


ル・ヴェール・ヴォレ

稲沢さんが6年務めた、サンマルタン運河近くの超人気店。





©Le Verre Volé



Le Verre Volé

67 Rue de Lancry, 75010 Paris

電話番号 : +33 1 48 03 17 34

営業時間 12時-14時半 19時-22時半

無休

http://leverrevole.fr/

テレスコープ

稲沢さん行きつけのコーヒー専門店。店主は、キュイジーヌのオープニングにも駆けつけてくれた。


Télescope

5 Rue Villédo, 75001 Paris, France

営業時間 8時半-17時

定休日 土日

Remerciements:

Takao Inazawa, Benoit Simon, Mié Inazawa, CUISINE

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