セキ ミチコ(セラミック・アーティスト/「Ceramichi」主宰)
MICHIKO SEKI(せき みちこ) 東京都まれ。大学休学中に、渡仏。大学卒業後、再度渡仏を経てARTS ET TECHNIQUES CERAMIQUE DE PARIS 卒業後、「Ceramichi」を立ち上げ独立。以後、オーダーメイドの器を創作、またオブジェやインスタレーションによる展示なども手掛け、そのユニークな作風や視点に注目が集まる。2018年から陶器のかけらを用いたシリーズ「p i è c e」(ピエス)も展開、枠にとらわれないクリエイティブな活動をしている。
創ることは生きること
心が響くモノ作り
これは…食器?と思わず首を傾げてしまいそうな、風変りな器の数々。それらが無造作に所狭しと並ぶ幾つもの工房が点在する、緑溢れる敷地。それが、セキミチコさんのアトリエだ。彼女が手がけるオーダーメイドの器には、依頼主の夢や願い、そして彼女の生き方や人生観もが込められている。
ハッピーな食卓の記憶
食いしん坊な家庭で生まれ育ったセキさん。幼少期の記憶の中には、必ず「ハッピーなテーブル周り」の情景があった。母親は器が好きで、日常の食事の時も美しく食卓を装っていたことをよく覚えている。関家には西洋食器と和食器と分けられた食器棚がふたつあり、子供たちも好きなものを出してきて使うのが、「当たり前」。棚の中には、当時母が凝っていた白い皿のセットがいっぱいあった。食事の基本は創作料理。「名前のない料理、その場で生まれるインスピレーション料理、でしたね」と懐かしそうに目を細めるセキさん。
だからか、人が想像するような、ザ・和食器を作ることはない。自分の中にそんな要素がない、内から生まれないものを使うのも作るのもやめよう、と思うようになったのも、自分に正直でありたいと言う想いの表れなのか。またその頃から、考え方や美意識は、食べることやライフスタイルと常に直結していたように思えるという。いわゆる「陶芸家」として作品を作るというより、セラミックと言う素材を使って面白いことがしたい。自分にしかできないことをして、人が集って食卓を共有するハッピーな場面を装いたい。ただそう考えるようになった。
手の中で土が躍る
父親は、広告のクリエイティブ・ディレクター、母親もアート好きで、クリエイティブな環境で生まれ育ったセキさんは、きっと自分もデザインや広告の仕事に就くのだろうな、と思っていた。小学校の頃は、家の設計図を描くのが好きで、画用紙で壁を立ち上げたり、つみきで家具を作ったりと、いずれは「建築家になりたいな」と思っていたが、母親に「算数がんばらないとね」と言われ、「すぐに諦めたんです!」と笑う。いずれにせよ、手で触ってなにかをすることに興味を示していたことに間違いないだろう。
小学校の図工の時間に、粘土でお面を作ったことがあった。「手の中で土が躍る感覚」が、なんだかピタッと来たのを覚えているという。画家だった母親よりうまく描けるはずがないと思ってか、絵に対してのコンプレックスがあったというセキさんは、粘土という自分に合う素材に出会い、その思いから解放してもらったように感じたのだとか。
そんなに遠くない外国
芸術学部に進学したセキさんは、雑誌に執筆していた父親の元を訪れる編集者の勧めで、文芸学部に転部し、仏文芸を学ぶ。幼稚園から高校まで通った学校では、フランス人が創設者だったこともあり、仏語の授業もあった。フランスは「そんなに遠くない外国」という認識ももとからあったからか、予てから希望していた海外留学の渡航先もフランスを選んだのだった。大学を一年休学し、語学学校に通いながらパリで一年暮らした。
パリでは、人が発するエネルギーに力強さを感じた、とセキさん。「自分」を主張しながら歩いている人々を観察しながら、この国では「自分」を持っていないといけないんだな、と感じたのだという。自己主張よりも調和を重んじる日本と、両極端かもしれない。しかし、どちらかに偏るのではなく、バランスを取りながらどちらも備えた人になれば良い、と母に言われ、今でもその言葉を強く胸に刻んでいるのだとか。ホームステイ先のマダムが開催するホームパーティーや、フランス人の日常の暮らし、生活にアートを取り入れる美意識、そして何気ない洗練されたセンスに感性を刺激された様々な経験は、今も活きている。
留学期間を終えて日本に帰国。学位は既にすべて取得していたため、卒業までの一年間、「せっかく学んだ仏語を忘れないためにも」、仏商工会議所内にあるUNION DES FABRICANTS(製造業者連合(-高級ブランドを中心とする知的財産権の監視を目的とする社団法人)でアルバイトするようになった。様々な素材や縫製の見方を教わり、熟練した職人の作り出す一流メゾンの製品に触れる機会を得たこの経験は、後のセキさんの制作活動、とりわけオーダーメイドの食器を手掛ける際に役立つこととなる。
子育てと仕事の合間を縫って
「またフランスに行きたい」と考えていたセキさんは、大学卒業を機に再度渡仏したのだが、正直生活の場は「どこでもよかった」と語る。「日本でも自分に欠いているものがあるわけではなかったのですが、若いうちに海外で暮らして視野を広げたいという思いはありました。だから、フランスに…」。
22歳、パリに渡ってすぐに結婚、そして翌年には長女を出産した。一年間、家庭と育児に専念した後、就職。いずれ独立することを念頭に経理の仕事に就いたが、時間を見つけては、セラミック(陶芸)の研修に通っていた。パリでの生活も落ち着いて、それなりのリズムを打つようになった頃、父親が他界する。まもなくして母親の具合もあまりよくないと聞かされ、休みを作っては看病のため一時帰国するようになった。「子育て、仕事、そして母の看病。正直、自分のやりたいことと向き合う余裕も時間も、なかったですね」とセキさん。そして母親が他界。それと同時期に、勤めていた会社が倒産した。
30過ぎてから始める勉強
「母が亡くなり、会社がなくなり…」。それでも、これもなにかの思し召しなのだと現実をポジティブに受け入れた。子供も大きくなり、手もかからなくなっている。「今こそ自分のやりたいことと向き合うべきなのかも」。真剣に陶芸の勉強を始めようと決意したセキさんは、パリの陶芸専門学校、ARTS ET TECHNIQUES CERAMIQUES DE PARISに入学する。
一年目は、主に轆轤(ろくろ)成形の授業。大学時代、既に轆轤を使った陶芸を学んではいたが、当時は「轆轤が嫌で嫌でたまらなかった」と思い返す。「回すこと自体はとても楽しいのですが、出来上がるものが嫌いでした。均一的過ぎて、機械的過ぎて。敢えて轆轤を使わないで作りたいって考えていました」。しかし、次第に轆轤と手作業を組み合わせた独特な形を作ることが面白くなった。これも、日本の陶芸文化と距離を置くことで、ザ・陶芸のルールとは違う感覚を身につけることができたからなのか。学校二年目で学んだのが、釉薬(うわぐすり)の作り方。器の表面にかけるこの薬によって、色を付けたり光沢や味わいを出すほか、吸水を防いだり、割れにくく汚れも付きにくくする。美しさと実用性を兼ねそろえた器を生み出すための、魔法の薬のようなものなのだが、その作り方は様々な原料を分量計算し調合していくという、ロジックに基づいた化学の世界だ。セキさんの学校では、ドイツの有名な教授の編み出したメソッドと、新たにフランスで開発されたメソッドとを組み合わせて作り出された独自の計算方法を実践しており、フランス語での専門的な研修はかなり難しいものではあったが、気の遠くなるような実験時間を短縮するためにも、どうしても習得したかった。
漠然とした確信
釉薬を勉強するまで残った同期生はたったの5名。それも厳しい授業に挫折して行った人がほとんどで、セキさんのように最後まで残り、後に陶芸を職業とした人は、他にいない。セキさんはと言うと、在学中に自宅に窯を作り、着々とアトリエ開設に向けての準備をしていたのだという。 「パリ郊外で借りていた家の大家さんに、買わないか、って言われて。両親が遺してくれたものもあったので、それでアトリエを構えようと思ったんです」。
とはいっても、まだ学生の身。本格的に陶芸の勉強をし始めてから日も浅い上に、実務の経験もほぼ皆無だ。「何故かしら。どうすればいいのか全然わからないのに、絶対にこの仕事をするっていう、確信だけはあったんです。周りには驚かれたけれど、それ以外ないって思っていました」。在学中も、学校で学んだことを反復したり、実験をしたりするためにアトリエを使うことは多くあったというが、一旦卒業するとすぐになんらかの活動を始めるでもなく、敢えて「何もしない」時期をおいた。
「最初はしばらく自分のスタイルを見つけることに集中したかった」とセキさん。本を読み、美しいものを見て、家族とともに時間を過ごす。そして、徹底的に自分と向き合い、考える。モノをただ作ればいいだけではない。まずは、モノを作る自分を作り上げていかないといけない。独自の考えと作るものに対してのポリシーを確立した上で、発信していきたい。だからなのか、柔らかい眼差し、そして彼女が発する言葉ひとつひとつにも強い意志が宿り、ドキドキするほど、キラキラしている。
オーダーメイドの器つくり
「自分を整える作業」期間中、東京のテーブルウェア店からの依頼で、フランス(ヨーロッパ)のテーブルウェアを買い付ける仕事を請け負っていたのだが、見本市や展示会を巡り、業界の動向を把握するうちに、器(各サイズや種類等)や設え方の知識を身に着けることができた。「型」を学んだことが、後の食器制作で役立つこととなる。
知人の勧めで作品をSNSで公開してみると、パリ在住の建築家から連絡があった。「パリのレストランで置けるようなお皿はありますか?」。意気投合したその建築家の紹介で、パリ市内で近々オープンを予定していた某レストランのオーナーの話を聞くことになった。「こんなの使いたいな」というオーナーの要望に耳を傾けながら、お互いに納得のいくモノの構想会議。「他の店とは違う」モノは作りたいけれど、お客様は理解してくれるだろうか… セキさんも積極的に提案していったが、「初めてのお仕事だったし、かなりとんがっていましたね」と思い出し、笑う。モダンアートのような器を用いて美術館のようにしたらどうかとプレゼンしたが、サンプルを見せた時、あまりに奇抜なデザインに驚かれたという。
一般的に、フランス人はあまりモノを買わない。伝統を大切にするお国柄のせいか、例えばおばあちゃんから受け継いだお皿を使っている、なんて人の方が多数派だ。その一方で、食べることは好きな人が多い。パリはグルメの街、とりわけレストランの数は多く、そこに目を付けた。シェフの要望に沿ったオーダーメイドの食器を創作するというスタイルはその当時まだ珍しく、この新しいアイディアは、パリのシェフ達の間に瞬く間に広がり、求められた。最初はそのやり方自体を開拓していかねばならなかったが、経験を積むうちに、2択-3択式で選んでもらうなど提案の仕方も工夫し、オーナーの気持ちを上手く読めるようになっていったのだとか。その甲斐あってか、一度も営業をすることなくとも次々と注文が舞い込むようになり、あっという間に売れっ子となった。
シェフの個性を光らせるお手伝い
レストランのシェフとのコラボレーションで、シェフの個性そして料理の個性を光らせる作品を作り上げる。それは、アーティストとしての役割も持ちながら、同時にアートディレクターとしての資質も問われる作業だ。いわゆる「お皿」を作るのではなく、アートやオブジェに食べ物を載せる、と言う感覚での作品作りを心掛けている、というよりは、自然とそう考えてしまうのだとか。そしてそれは、レストランという非日常的な場だからこそ、より可能になるのではないかと考える。
初めてお店を出す料理人は「とっても輝いているんですよ」とセキさん。「なぜ料理を始めたのですか?」「子ども時代は何が好きでしたか?」と言うような、一見器とは関係ないような質問の応えの中、会話の中に「ヒントが落ちている」。それらを拾い上げていくと、人となりが見えてくる。何を求めているのか、理解することができる。器にも意味を込めることができる。「料理で伝えたいことを表現するためのお手伝い」をするためには、深いコミュニケーションが「とても大事なプロセスだと思っています」とセキさん。料理やシェフの個性は、その人らしさを引き立てる個性的な器によって、さらに光らせる事が出来る。シェフと店の方針を理解し、咀嚼した上でユニークなものを作っていきたい、と考え出来上がった作品には、彼女の「作る」や「生きる」意味もが詰まっているのだ。
作ること=生きること
創作する目的は、「個性=独自のスタイル」を追求し、表現すること、そしてそれを分かち合うこと。「なにをどうつくりたい」と「どう生きたい」は直結していると考えるからだ。そのためか、作品を見た人の「好き」「嫌い」といった評価も、「こういう人にこれは響くんだな、これは響かないんだな」という風に受け止めることができる。距離が置ける。好みや考え方は、人それぞれだからだ。
レストラン(平均24-5席として)の器は、メインで使われる場合、合計で200皿ほど制作する必要があるため、生産だけでも最低1か月の時間を要する。その工程とは、まず成形、その後1週間ほどかけて少しずつ乾かし、形を整えるための削りの作業を経て、850度の窯で一晩中素焼きする。一日置いて冷ました後、釉薬をかけ、今度は1250度で一晩かけての本焼き。一日置いて冷ましてやっと窯から取り出す。これが最短プロセスなのだが、1-2割壊れている場合もあるため、その分を計算しながら数を合わせていく。「ありがたいことに、どうしても、と言ってくださる方もいらっしゃるので」常に複数の注文を同時進行で手掛けている。そのためか、アトリエの敷地内に点在する作業場(工房)は、どこもかしこも器だらけ。その中に、目を引くものがある。金具がついた掌に乗るくらいの陶器のかけらが山積みされているのだ。
心に響くモノ作り
「器を焼くとき、どうしても一部割れてしまう。その形がかえって面白いなと思って、自分でお皿として使っていたんです」。「割れている」というのは先入観。ユニークな形をしたものなんだ、と捉えると、それぞれが素敵に思えた。まさに、自分だけの「一点物」。その考えをさらに深化させ、「身に着ける」ことができるかも!とそれらのかけらをアクセサリーとして展開していくことを思いついた。
偶然発生する「割れ」から生まれる一点物、ストーリーありきのアクセサリーライン、「p i è c e」(ピエス)。型にはまることなく、自分だけに響いてくれるものを見つけ出すことは、陶器とファッションの境界線をぼやけさせ、そして個性とは何かと問いかける表現活動として見事に一貫している。また、知らないうちにアップサイクリング(不要になったものを再利用してさらに良くすること)を実践していて、「意識していたわけではないのに、楽しんでやって結果的にそうなって、良かった」と目元が緩む。
「p i è c e」 を日本で発表した際、「日本にはないセンスだね」と指摘され、フランスで培ったものがあると認識し、嬉しくなった。「日本には陶芸という伝統文化がある。フランスにももちろんあるんですけど、そんなに根付いてはいないんです。その分縛りがないので、ちょっとしたことで驚かれたり、自由に製作できる空気があるから、ユニークな存在でいられるんじゃないかな」。
縛られないから広がる
普段陶芸教室を行いながら、シーズン毎に展示会や陶器市で作品を出品する、というのが陶芸家の一般的な活動スタイルかもしれないが、セキさんは「自分に合うはずがない」とはなっから分かっていた。小さい頃から、「型にはまったことが大の苦手」だった彼女は、(創作期間中でない限り)友人や知り合いにアトリエを開放し、自由に作りに来てもらうスタイルをとるようになった。「陶芸は設備がないと難しいから、興味のある方に提供するって感じですね。聞かれたら教えるけれど、基本的には「好きにして、好きに使って」。制限を作るのは、向いていないので…」。
最近ではテーブル全体や内装も含めたコーディネートや、さらにビジュアルも含む包括的なアートディレクションを任されることも増えて来た。食器だけではなく、花器や茶器の依頼も受けるようになってからは、生け花や茶道も習い始めた。音楽や映像を組み合わせてインスタレーションを行い、器に込めた思いや世界観を表現することも、これから続けていきたい活動のひとつ。パリ市主宰の展示会への参加を機に、ベオグラード国立美術館から招待を受け、子供の頃魅せられた縄文土器のオマージュでセキさんの代表作ともなる‘Sara-Soje(沙羅双樹)’シリーズのインスタレーションを総合的に展示する機会も得た。そして幅が広がるに伴い、チームでの活動が中心となって来た。新たに日本でのプロジェクトも始まろうとしている。
「誰もやっていないことをやりたい。自分にしかできないことをやりたい。そしてその輪を広げ、周りとシェアしたい」という展望は、制作活動を通して、彼女の生き方をも反映している。
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セキミチコさんの アトリエ & ショールーム
CERAMICHI
22 Avenue du Bel-Air94100 St.Maur des Fossés
見学予約制
お問合せは info@ceramichi.com より
Remerciements:
MICHIKO SEKI, Maya Madeleine
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