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大浦雲平(ファッションデザイナー/CLOUD LOBBY主宰)


Umpei Ohura(おおうらうんぺい)東京生まれ。東京造形大学卒業後、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーに留学。2006年パリに移り、パターンナー養成学校A.I.C.P (Académie Internationale de Coupe de Paris)にてレディースパターンナー資格ディプロムを取得。以後数々のアトリエで修行を積んだ後、2013年、自身のブランド「CLOUD LOBBY」(クラウド・ロビー)を立ち上げる。

 

型にはまらない感覚的な服で

自らの居場所を作る

運命の日 -- 2015年7月30日、フランス・パリ。

法曹界の最高峰、最高裁判所にて前代未聞のゲリラショーが開催された。日本人デザイナー、大浦雲平さんが自身のブランド「CLOUD LOBBY」のコレクションを、ビザ取得のために法廷弁護士ロマン・ブレ氏、彼に賛同するモデル、フォトグラファー、ヘア・メイク、スタイリスト、スタッフらとともに発表した。その衝撃的なニュースは翌日、ル・パリジャン紙、AFP通信などを通じて驚きを持って世界に伝えられ、多くの反響を集めた。

美大で触れたファッション

物心ついたころから、常にアートに触れていた、という大浦雲平さん。父親は美大で教鞭を執る傍ら、自身のライフワークとしたテーマを長年追い求め、作品を発表。母親は絵画教室を主宰。日常を言葉や絵を媒体とした和紙と墨による制作活動を続けている。

大浦さんがファッションの世界に興味を持ち始めたのは、野球少年だった高校生のころ。推薦での一般大学への進学には、自分の将来をうまくイメージすることができなかった。そこで好きだったファッションの道に進もうと考えたが、「若いうちから専門的な技術を学ぶより、幅広い視野でアート、デザインを勉強してみれば」という両親の助言もあり、美大を受験することに。一浪して合格した東京造形大学には、いわゆる「ファッション科」はなかったが、学生有志のファッションショーを主宰するサークルに参加した。大学祭で披露されるそのファッションショーは美大という環境もあって、服作りはもちろん、企画、演出、舞台、照明、映像など各メンバーが得意な分野で力を合わせ、一つのショーを作り上げるというもの。先輩後輩の枠に縛られず、やる気とアイデアさえあれば、服作りの基礎を全く知らなくてもショーに参加させてもらえる自由な気風があった。大浦さんは迷わず「デザイナーになりたい」と手を挙げた。


何も知らないからできる

 大学1年生にして、初めてのファッションショーに挑戦することとなった・・・はいいが、デザイン画を描いたことも、生地を裁断したことも、ミシンを使って服を縫ったこともなかったという大浦さん。しかし、短期間でそれらの技術や知識を得ようなどという無謀な試みはせずに、「どうせできないなら」と開き直り、「服を作るということを知らない分、ルールに縛られずに、自由な発想ができるはず」と自分を勇気付けた。「服の起源とは?人はなぜ布を身体に纏うようになったのか?」ということに着目し、一枚の布が即興でドレスにまで昇華される過程をパフォーマンスとしてランウェーで表現した。構想したドレスは全部で5体。後に本格的に服を学ぶようになった大浦さんは、「「なんでもあり」な感覚で服作りを始めることができたことはすごく大きかった。あの感覚は今も忘れないようにしている」という。

世界屈指の名門校へ

大学在学中に、現在でも第一線で活躍する数々のデザイナーを輩出した世界屈指の名門校、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミー・ファッション科を卒業した3人の若き日本人デザイナーの卒業コレクションを特集した記事を読み、「自分も行ってみたい」と入試に挑戦。実技、英語面接と難関を突破し、合格。ベルギーに渡ることとなった大浦さん。しかし実際には日本の美大とほとんど変わらないカリキュラムの上にファッションの授業と並行して夜間、現地の言葉であるフラマン語の語学学校にも通わねばならず、ファッションと語学両方の課題を一人でこなす毎日に、自分は何のためにベルギーまで来たのだろう、と自問するように。学校をやめようか、と考えている時、大先輩にあたるデザイナー、ハイダー・アッカーマンに相談したところ、「アトリエに手伝いにくるか?」と誘われ、そのまま彼の元で働くことに。しかし、夏休みで日本に帰省し、再度戻ってきた時にはハイダーはもうそこにはいなかった。

目指していなかった「パリ」

 ハイダーのアトリエは、大浦さんが日本に帰省している間にアントワープからパリに移転していた。すでにアカデミーを自主退学していた大浦さんには、もうベルギーに留まる理由もなく、そのままハイダーを追っていくことを決意。バックパックを背負って、パリ在住の先輩の元に転がり込んだ。

デザイナーを志すようになり、「ヨーロッパに行きたい」とは漠然と思っていたけれど、なぜか「パリにいこう」とは考えてなかったという大浦さん。「そもそもパリを目指していたわけではないんですよね」と笑う。しかし、彼はこのモードの都・パリで服飾の全てを学ぶこととなる。

ハイダーの元で働いた後、ベルギー出身のデザイナー、ヴェロニク・ルロワのアトリエでパターンアシスタントや生産管理に携わる。職場でのコミュニケーションをとる分には英語でなんとか通用したが、「このまま生活していくには」とフランス語を学ぶべく午前中には語学学校に通った。アトリエで経験を積み、叩き上げでパタンナーとして実績を作ることもできたのかもしれないが、もう一度服作りの基礎であるパターンから学び、資格を取得してきちんと職を得たい、と考えるようになった。そこで一旦修行を中断。モンパルナスにある日本食店で休むことなく働き、学費を稼いだ。




ブランドを作るために必要なこと


 東京造形大学時代で経験したファッションショーを作り上げる喜び、そして斬新なデザインと共にデザイナーとしての姿勢、働き方を学んだアントワープでの経験。パリでの修行を続けていくうちに、自分はどんな服を作りたいのかぼんやりと見えてきていたものの、それをどうやって形にすればよいのか、その技術が自分には欠けていることを痛感した大浦さんは、ジャケット、シャツ、パンツといった基本中の基本をパターンナー育成に定評のある養成学校A.I.C.Pで地道に学んだ。



 そこで得たものは、より構築的な服作りへのアプローチ、立体裁断を中心としたよりボディーラインを意識するヨーロッパ的な感覚だった。日本語ですらも理解困難な服飾の専門用語には悩まされたが、なんとか無事に資格を取得してすぐ、有名ブランドの服を手掛ける既製服の生産工場のパターンナーチームに所属し、働くことに。ここでの仕事はパターンだけではなく、生地の裁断、生産ラインの管理など多岐にわたり、高級既製服がどのように作られているのか、生地から製品になるまでの工程を、手仕事や検品といった仕上げなど細部にまでとことんこだわるそれぞれのブランド哲学を学ぶ。生産工場での経験を元に、「自分でブランドを作るためには、服作りに必要な全ての技術をまずは自分で身につけなければ」と覚悟を決める。


日本のものづくり

その後、ビザの切り替えのために3ヶ月間日本に戻り、外注パターンの会社で働く。日本では一般的にCADというソフトを使い、より効率的かつ合理的に大量の服が作られており、それまで彼が見てきた手仕事が中心のヨーロッパの服作りとは一線を画していた。日本、そしてヨーロッパの服作り。それぞれの長所を併せ持ったブランドを作り上げていきたい、と確信する。その外注パターン会社の社長は、いつかパリにも会社を作りたいと考えていたため、すぐにでもパリに戻って自分のブランドを立ち上げたい大浦さんの思惑と一致し、共同で出資し会社を立ち上げる準備を開始。大浦さんはパリに戻って、会計士や弁護士と書類作りに専念し、同時にフランスで活動するために必要な滞在許可証の取得のためにも動いた。しかし2012年、会社やビザの準備が全て整った段階になって、共同出資者が辞退し、その話が流れてしまう。



「単独でブランドを立ち上げよう」と方針を転換。しかし、個人事業実績が皆無の大浦さんが作る書類は説得力に欠け、なかなかうまい具合に進まない。ビザの更新期が迫り、このままでは不法滞在になってしまう・・・八方塞がりになってしまった大浦さんはなんとか実績を作るため、日本で服のプレゼンテーションをすることを決意。「うまくいかなくても仕方がない。むしろそれが当たり前。やらないで後悔するより、やって失敗しよう。そこから何かを学べるはず」と、東京でショールームを借り、全て彼一人の手作業による服を展示し、個人オーダーをとった。すると、想定していた数倍ものオーダーという予想以上の反響が!予期せぬ事態が多々起こり、たくさんの失敗があったが、自分の作る服にたくさんのオーダーがついたことに自信を深め、反省を繰り返しながら、ショールームでのプレゼンテーションを続けていった。


「服はあるか?」


 着実に経験と実績を積んでいった大浦さん。しかし、パリでの会社設立に向けたビザ取得における状況は一向に好転せず、行政機関をたらいまわしにされる。ビザの有効期間はすでに切れていたが、かといって退去命令が下されたわけでもなく、いわば宙ぶらりんのままの状態でもがく。しかし、それまで彼のために働いてくれていた弁護士からの紹介で敏腕法廷弁護士との出会いが事態を動かす。



 大浦さんの切実な思いを親身に聞いてくれた弁護士、ロマン・ブレ氏が発した「今、見せる服は手元にあるか」という一言が、前代未聞のアクションの幕開けとなる。ブレ氏が計画したのが前出の最高裁判所でのゲリラファッションショー。「リスクは高いが、アクションを起こさなければ。その価値はある」と断言するブレ氏は心強かったが、「キツネにつままれたような気分になった。万が一うまくいかなかったら、捕まってしまうかもしれない、と震えが止まらなかった」と大浦さん。リスクを厭わずに「大浦さんのためなら」とモデルやフォトグラファー、ヘア・メイク、スタイリストといったショーに欠かせないスタッフも快く参加を引き受けてくれ、僅か一週間後に迫るショーの準備を手伝ってくれた。

そして、ショー当日。弁護士軍団に見守られる中、大浦さんが手がけた服を纏ったモデルたちが次々と服を着替えながら、フランス最高裁の厳粛な空間を颯爽と歩いた。

ショー翌日のル・パリジャン紙面には、大浦さんとブレ氏が滞在許可を訴えるインタビューが掲載された。「この青年は才能に溢れており、フランスは彼を喜んで迎え入れるべきです」「もしこれが特別な才能でないとしたら、誰にそれがあるというのでしょうか?」。




戦士なんかじゃない


 ゲリラショーが世間の注目を浴び、行政の対応も一気に加速したのでは、そして服の売り上げにもつながったのでは、と思うが、「そんなことはなかった」と語る大浦さんは、ビザ取得見込みが出ているとはいえ、今現在も待機中の身だ。「フランス国内では販売できないという状況は変わらない。そして日本では、フランスで戦っている活動家的なイメージがついてしまった。話題性はあっても、売り上げにつながるようなポジティブなイメージは持たれない。」

「僕は戦っているわけでもないし、政治的なわけでもない。ただ単に、ここに暮らして服が作りたいだけなのに」という大浦さんからは強い戦意は感じられない。社会に悲壮感を訴えかけるような眼差しでもなく、まるで雲のような、ゆるくて柔らかい空気が、どこからともなく漂ってくる。 そもそもパリに特別な憧れがあったわけではない彼が、そこまでしてこだわる理由とは何なのだろうか。




魅せる人になりたい


 「意地になっているわけではない」という大浦さん。それでもパリを離れたくない理由の中には、「パリに全てを教わった気がするから」という真摯な思いが潜んでいる。デザイナーを志した頃から自分を育ててくれた西欧の美意識や感覚はまぎれもなく自分の一部となっているように思えるのだとか。パリで活動した後に日本に帰国し、自身のブランドを展開していくのは確かに魅力的かもしれない。でも、あえて留まり、西欧の価値観の中で熟成されていくブランドを作っていきたい、と思うようになった。



 都会育ちの彼にとって、東京に似たニューヨークやロンドンのような大都市ではなく、心地よく田舎で適度に都会なパリ。一見さんには見せてもらえない街、建物、そして人の内に秘めるものも、時間をかけて丁寧に向き合うことで、少しずつフランスという国の魅力、そして懐の深さを認識することができた。



デザイナーとして日常の小さな事柄からインスピレーションを与えてもらえる、と同時に「ほっておいてくれる」どこか他人に無関心な環境は、周りの目を気にせずにクリエーションに没頭させてくれる。そんな「パリ」にありがたさを感じる一方「1日も早く自分の服が人々を魅了する日が来ることを願っている」。そう語る瞬間だけ、大浦さんを包む柔らかい空気は緊迫する。



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CLOUD LOBBY取扱店

大浦雲平さんが手掛ける洋服は、日常着なのだけど、パーティーにもそのまま着ていける。どこかひねりのきいた遊び心が散らばっていて、なんだかいつもとは違う衣を纏ったような感覚が伝わってくる。そんな彼の洋服を手に取ってご覧になりたい方、以下の店舗などでお求めいただけます。

Brunkito(大阪) http://brunkito.com

Confidence(福島) http://www.confidence2011.jp

パリ市内で現在のところコレクションをあつかう店舗はありませんが、

ご興味のある方は下記アドレスまでお問い合わせください。展示会情報などお送りさせていただきます。cloudlobby.commercial@gmail.com

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スーパーを利用しない食生活

 「料理をするのは好き」という大浦さんは、自身の食事はもちろんのこと、手伝いに来てくれるアシスタントに腕をふるうこともあるのだとか。そんな彼が暮らすパリの下町・ベルビル界隈には週4回マルシェ(青空市)が立ち、買い出しに最低でも週1回は出向く。また多国籍な雰囲気あふれるベルビルに所狭しと居並ぶ中華スーパーやアラブ系マーケットはどこかちょっと懐かしい香りを放ち、値段も大幅に安い食材を求めて通う人たちでいつもごった返している。大浦さんにとって、新鮮な食材を調理して、気の合う仲間に振る舞うのも一つの楽しみであり、インスピレーションの源でもあるのだとか。

近年次々と新しいスポットがオープンしているベルビル・エリアでの外食も楽しく、なかなか他の界隈には足を伸ばさなくなってきたのだそう。その中でも、仲の良い日本人シェフが腕を振るう近所のお店では日本人ならではの感覚でフレンチを表現した、個性あふれる料理が堪能できると、足繁く通っているのだそう。


大浦雲平さんご用達の店

ル・フィルー

老舗ビストロで今も大人気のchez Michelで修業したシェフのお店。リーズナブルで美味しくて、ボリュームのあるメニューと居心地の良いサービスが魅力。秋にはジビエも楽しめる。

©Le Philou

Le Philou

12 rue Avenue Richerand,75010 /Paris

tel:+33 (0)1 42 38 00 13

営業時間12時-14時 19時半-22時半

日月定休日

レストラン バー パリサード

朝から深夜までノンストップで開いていて、気軽に一杯飲んでタパスをつまむスタイルで地元っ子に大人気。平日の昼はフレンチ、そして土日には和食と別の国(週替わり)のブランチ。夜はフレンチベースの料理を居酒屋スタイルで楽しめる。

©Restaurant Bar Palissade

Restaurant Bar Palissade

36 rue de Sambre et Meuse 75010 paris

tel:+33(0)1 83 56 18 46

営業時間 9時-26時 火曜-土曜

     10時-16時 日曜 

     月曜定休日

Remerciements:

Umpei Ohura, Cloud Lobby, Le Philou, Restaurant Bar Palissade

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