新村真理(フォトグラファー)
新村真理(Mari Shimmura) 1979年、鹿児島県霧島市生まれ。2002年創価大卒。オーストラリアと東京で写真家のアシスタントを経て、2005年渡仏。フォトグラファーとして、パリで多岐に活動。様々な業界で活躍する人々を撮る傍ら、旅先ででくわす大自然の形態を撮りため、発表している。
自由を獲得したパリから見つめる人間と自然
本誌「パリと私の物語」(本の泉社より出版)で、数々の在パリ日本人のポートレートを手掛けた、フォトグラファーの新村真理さん。空気のようにスーッと現場に溶け込み、表情や動作を見逃さないようファインダーを覗くその眼差しは真剣、だけではない。穏やかであり、また敬いに満ちている。まるで、今まで見た数多くの景色を、被写体の瞳の奥に見出しているかのように。
アイスランド・シリーズより
知らない世界の憧れを写して
新村真理さんが、故郷の鹿児島県霧島市から初めて海外に出たのは、中学二年生の時。一カ月間のアメリカ滞在だった。生まれ育った環境からは想像もできないような世界で、初めて目の当たりにする風景にでくわしては写真を撮るようになった。 帰国してからもカメラを手放すことはなかった。日本では、コンパクトカメラやポラロイドカメラを用いる若手フォトグラファーが注目を浴びるようになり、写真を撮るということがより身近に感じられるようになっていた。当時一番よく撮っていたのは空や飛行機。それは、どこか遠くの世界への憧れを象徴していたのかもしれない。 海外に出るという思いはそれからも心の中で育っていったが、「高校を出るまでは霧島にいてほしい」という母親の想いには応えたいと思った。これからどのような道を進むことになろうとも基本的な学を身につけておきたい、とその後東京の創価大学へ進学する。専攻は経営学。勉強は楽しかったが、果たしてそれが自分の将来にどのように繋がっていくのか、との戸惑いもあった。そんな中、学友たちの就職活動が始まり、「自分は?」と焦りを感じる。
そしてそれは、日本という閉鎖的な社会の中に自分の居場所がない、と感じ始めた時期と重なる。保守的かつ排他的な日本では認められない様々な愛の形。同性愛者である自分が、愛する人と守り合う術を持つことができない、という日本社会に対しての、気力を蝕まれるような違和感、そして憤りでもあった。
自由な自分を体験しに、海外へ
2002年、新村さんは一年間のワーキングホリデービザを手に、シドニーに降り立つ。日本で常にまとわりついていた足かせから解き放たれ、自由を味わった。寛容な社会、そして恵まれた大地。日本での生き辛さが嘘のように、解放されている自分がいて、毎日が楽しかった。フォトグラファーとしての初仕事を受けたのも、ここ。オーストラリア全土を駆け巡り、想像したこともない世界の景色や形態を前にシャッターを切る毎日。ここではじめて「写真を撮って生きて行こう」と決意する。撮りためた写真と共に帰国し、故郷で自身のはじめての個展を行った後、また東京に戻り本格的にフォトグラファーとしての道を進み始めたのも、「今まできちんと日本の社会と向き合っていなかったのではないか」という心残りがあったから。そこから3年間、写真家の先生達について、数々の現場を経験していく。そして休みをみつけては、カメラ片手に旅に出た。行先は専らアジア。インド、チベット、いわゆる秘境の地にも数々訪れ、目前に出現し続ける圧倒されるような光景を写真に収めていった。そこで体験した驚きや開放感は、写真に表れて出た。たくさんの未知なる発見を前にした感動が、若さやエネルギーと共に滲み出ている。初めて自分を出すことができた、と実感する。そしてそれは、成長していく自分を認識できる導でもあった。 それらの写真は、東京や地元で発表した。作品を人の目に触れることで、「自分を理解してもらいたい」という願望もどこかにあったのかもしれない。それでもやはり、「日本に自分の居場所がない」という思いは変わらなかった。そして、2005年、再度日本を出る決意をする。
自分の居場所で仕事をする
渡航先には、当時はまっていたインドか、写真文化の熱い国フランスかとで迷った。しかし、知り合いのインド在住夫婦に「わざわざ苦労しにインドに来ることはない。せめて先進国に」と助言され、フランスへ。
一軒家ときいて日本で決めてきたパリでの住まいは、街はずれの車のガレージを改造したほったて小屋のようなもの。「話が違う」と抗議するが、後の祭り。なんとか1週間後には違う滞在先を見つけることができたが、せっかくのワクワク感が一気に萎んでしまうような、くじけそうになったパリ上陸直後の事件。「疑うこともせず、甘かったのだと思う」と振り返る新村さん。知らない地で生きていくことの厳しさに気づく。
作業は愛猫・チチと一緒に
「フォトグラファーとして活動を始める」とは言っても、飛び込んできたパリ。当然だが仕事はない。もちろん外食をするような余裕もないし、カフェに入ってもカウンターでエスプレッソしか飲めない。街中で起きるハプニングを前に震えあがり、「実は怖がりの自分」も発見した。それでも毎日が楽しかったのは、やっと自分の住む場所、居場所が見つかった、と思えたから。パリは、フランス人ばかりが住んでいるわけではなく、様々な国籍、そして信仰の異なる人々が共存している。そして愛の形も様々で、自分が好きなことを好き、と胸を張って言える環境。教科書通りになんてしなくっても良い。日本でいわば強制されてきた生き方や考え方を超越して得たのは、紛れもなく自分の手でもぎ取った自由と新しい人生。みんなが違うのが当たり前の世界の一員に自分もなれたのだという感覚が、とても心地よかった。奥ゆかしさや「何を言わずとも理解する」といった日本で美徳とされるものは、フランスでは通用しない。感情をむき出しにして討論をするフランス人には、正直辟易したこともあったが、自己主張の強いフランス人に揉まれるうちに、成長している自分にも気づく。人とは違う、というのが素晴らしい個性として受け止められる社会を、ありがたく思った。
フォトグラファーとは、見たことのないものを発見した証を残すことのできる職業だ。良い写真を撮りたい、というよりも「良い生き方をしたい」とファインダーを通して世界を見つめていると、目の前の最高の景色が表れてくるのだそう。それは、自分と感覚だけの世界。他人を意識する必要はない。でもそれは、自分の視点を共有できることでもある。人に感動を分けてあげられる、「美味しいごはんを一緒に食べる様なこと」と新村さんは言う。
パリを拠点にする旅
パリに来ての初めての仕事は、「フランス雑波」(現在のボンズール。ミュージシャンでもある猫沢エミさんが編集長を務める)というフリーペーパーの撮影の手伝い。どこかで見た募集に応募したことがきっかけで、「一緒にやろう」ということになった。パリだけではなく、フランスの田舎を車で駆け巡り、撮影をこなしていく。自分の経験値だけではなく、新しい出会いや広がっていく輪が、更にふくらみ、かくたる充実感につながっていくのを実感。常に「ワクワクしていた」と振り返る新村さん。そして、彼女の才能は、口コミでちょっとずつだが確実に広がり、徐々に仕事が入ってくるようになる。
アイスランド・シリーズより
定期的に入って来る仕事などの合間に旅に出ては、「自分の好きな写真」も撮り続けた。クロアチア、トルコ、イスラエル、北欧の国々、そして一番最近ではアイスランドなど文化も気候も異なる国々ばかり。ファインダーが追い続けるのは、その国々の圧倒されるような大自然。都会も大好きだが、想像もつかないような景色を体感するのが、何よりも心地よかった。嘘のない自然の姿をフィルムだけではなく、目の奥にも焼き写し、持ち帰ると、都会の中でも心が狭くならなく、豊かに生活できるのだという。そんな旅先での風景写真はパリでも展示し、そして機を見計らっては編集者に持ち込み、出版の可能性やタイミングを伺う。フランス語を学んでいたころ、日仏の語学交換で知り合った、編集者でもあるフランス人の小説家が、新村さんの写真を見て文章を書いてくれたことがきっかけで、書籍化することもできた。それは、これからも「自然と人間、両極端を繋げるような仕事をしたい」と大きな目標を掲げることができる、という彼女の自信となった。
イスタンブール・シリーズとクロアチア・シリーズが掲載された"GHOSTWRITER"(右) と "Entre Plitvice et Zagreb" (左)
分かち合うという喜び
パリの様々な業界で活躍する人々の人物紹介、ポートレート写真を撮ることが多い、という新村さん。たくさんの頑張ってきている人の話を聞きながら、時には共感し微笑み、時には驚き、そして尊敬の眼差しをファインダー越しに向けながらも、相槌をうつ。そんな姿がとても印象的だ。彼女の周りの経験豊富な、いわば人生の先輩的な方々の話を、スーッと自分の体内にまで吸収し、それらを自分の一部として大事に育む、そんな風にも見える。
新村さんは、「たくさんの方々にお世話になった」と、常に感謝の意を抱いている。フランスという未知の世界に飛び込んできた自分に、たくさんの知識や知恵を与えてくれた方々への恩返し、ともいうべきか、在仏10年を越えた自分に課すのは、これからパリで働こうとしている若者世代の応援だ。「日本で生き方を見つけられなかった子を励ますことができる。違和感を感じているのなら、大丈夫だよ、って言ってあげられる」と語るその瞳は、微かに潤んでいる。それは自分自身が身をもって体験したことであり、できることならば、若い世代の子たちにはしてもらいたくない苦労でもある。「勉強、研究や仕事、自分で決めた道で、苦労することはほかにもいっぱいあるのだから」。年々少なくなってきている、日本からの「新人」にも気をかけられるようになってきた。芸術家、と呼ばれる職業には、いわゆる「定年」というものがないからこそ、自分の立ち位置は見極められるよう常に意識している、そう語る表情は清々しい。実績を積んで、自信もついた新村さんは、大学で学んだことを生かし、また自分を育ててくれた恩師に報いるためにも、会社を立ち上げ、自ら仕事を作り出すこともできる。 国籍、性別、年齢…関係なく、たくさんの人と一緒に何かを作り上げていく、共同作業。「そういう機会が増えていくといいな」と目が緩む。
ほっとするのはアジアご飯
新村さんが、パワーをもらうのがアジアご飯。特に、本書にも登場し、友人でもある料理人の室田万央里(むろたまおり)さんが作るごはんに目がないそう。仲間と集まって気楽に食事するのに選ぶのも、いつもアジア系だ。すごく辛いのだけど、「どんどんもりもり食べたくなる」四川料理の専門店で喝を入れてもらったり、「気分があがる」ラオス料理も先日友人と一緒に堪能したばかりだそう。もちろん、自身が腕をふるまう手作り料理のレパートリーも幅広い。和食はもちろんだが、その他、旅先で味わった数々のエスニック料理を再現することもよくあるのだそう。得意なのは、タイカレー。大勢で集まるときには、みんなで鍋を囲む。そして親しくなった証には、実は一番得意とする、チャイでおもてなし。一服いただいていると、新村さんの穏やかな眼差しに見守られているような、そんな錯覚を起こしてしまうのは、それがたくさんの東洋のスパイスが炊きこまれた「媚薬」のせいだけではないはずだ。
新村真理さんご用達の店
ラオ・ラン・サン
「気分が上がる」ラオス料理専門店。店の前を通りかかると、そのまま吸い込まれるように、入ってしまうそう。
テイクアウトでオーダーするときも。
お薦めは、バジル風味の鴨-タマリンドソース和え。
©LAO LANE XANG
LAO LANE XANG
102 Avenue d'Ivry, 75013 Paris
Téléphone : 01 58 89 00 00
営業時間 12時-15時 19時-23時(木曜は夜のみ)
水曜定休
Remerciements: Mari Shimmura, Vertumne