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佐藤康司(デザイナー)

Koji Sato(さとう こうじ) 1976年生まれ。新潟市出身。98年に渡仏。Academie Internationale de Coupe de Parisモデリスト科を首席で卒業。YVES SAINT LAURENT HAUTE COUTURE、HERMÈSで経験を積んだ後、2001年よりMICHEL KLEINにアシスタントデザイナーとして入社。同社を2016年に退社し、翌年4月にパリで株式会社CREAFIDEMSを設立。同年、バッグブランドLIENDE PARISを立ち上げる。

 

憧れのパリで描く絵で

紡ぐご縁と叶える夢

 整頓された作業机には、色とりどりの色鉛筆が並べられ、美しいラインのデザイン画を彩っている。小さい頃から大好きだった絵を描き続けることによって、開けていった道を突き進み、次々とチャンスをものにしてきた佐藤康司さん。デザイナーとして長年勤めあげた末、自身のバッグブランドを始めた佐藤康司さんが作り出すものには、それまで彼を支えてきた「ご縁」への感謝の想いが詰まっている。

絵画の世界で触れたフランス

 物心ついたころから、フランス文化を身近に感じていたという佐藤康司さん。趣味で絵を描いていたという父親の部屋にはフランス絵画集が多く、そんな環境の中佐藤さんも絵を描くようになった。高校は県内有数の進学校に通い「大学に行くのが当たり前」とされていた時代、深く考えずに受験し上京。法学部に進学した。しかし、大学二年の頃、「この先自分はどう生きていきたいのだろう」とふと考えたとき、「今とは違うことがやりたい」と気付く。

見知らぬ世界をこの目で見たい。初めての海外「行くなら絶対にフランス」と心に決めていた。このまま大学に通っていても意味がない、と中退を決意するが、「卒業してからお金を貯めて、自分でいけばいいじゃないか」と周囲には猛反対されてしまう。そんな中、唯一理解を示し、「行ってみればいい」と言ってくれたのが父親だった。


パリに憧れて

 大学卒業までにかかるはずだった学費をそのまま渡航費、そして現地での生活費・学費等に充てさせてもらうことになった。きちんと語学を身に着けて帰国、就職する、と約束させられた。

佐藤さんがフランスに降り立ったのは、1998年2月。早速、パリの語学学校に登録し通い始めるのだが、さっぱり肌に合わない。周囲の勧めもあり、次に登録したのが地方の語学学校。しかし、授業以外で接する学生たちは全て外国人で、使うのは英語ばかり。「どうせなら同世代のフランス人と交流したい」と、毎週末パリに遊びに行くうちに、「時間がもったいない」と2ヶ月でその語学学校をやめ、パリに戻ることにしたのだった。

モードの都に来たのだから

 学生時代にアパレル店員のアルバイトをしたこともある佐藤さんは、パリでフランス人のファッションセンスに惹かれた。せっかくモードの都パリに来たのだから、服の勉強がしてみたい。デザインは独学でもできるだろう。まずは洋服の構造を学びたい、とオートクチュールのパタンナー育成学校に通うことに。授業は全てフランス語。一つ一つ理解し、技術を身に着けていくには人一倍の努力を要される。そこで、教わったことは全て絵で描き覚えていくようにした。その熱意は買われ、良い成績も収めていたのだが一年も経つと、学校が閉校すると知らされる。急遽、数々の学校に編入手続きの面談を申し込むのだが、4か月後の新学期まで待ちなさい、と断られてしまう。そんな折、たまたま見つけたのがAICP(Academie Internationale de Coupe de Paris)というパタンナーの職業訓練校。半年単位の受講が可能という当校を訪れると、たまたま在校していた校長が面談をしてくれ、すぐに入学を承諾してくれた。それから半年間、難解なフランス語の専門用語と葛藤しながらも、平面・立体の裁断を学んだ。最終試験では、現役のパタンナーで構成される審査員から最高評価をもらい、首席で卒業することとなったのだった。



名門老舗メゾンで研修

 試験に合格した後、1か月の研修を経てディプロムを取得できる。成績最優秀者だった佐藤さんが優先的に選ばせてもらえた研修先が、フランスの名門メゾン(ブランド)、イブ・サン・ローラン(以下YSL)社のオートクチュール部門だった。

そもそも、フランスにおいて卒業したての学生を研修生として迎えることは、新たな才能を育成していくためであり、必ずしも即戦力とするためではない。YSL社で研修を始めた佐藤さんも、研修期間中は、歴代の特徴的なジャケットのデザイン画からシーチングを半身で組む訓練を課せられたのだが、2週間も経つ頃にはある程度やりつくしてしまった。

ふと窓から顔を出してみると、向かいで故イブ・サン・ローラン氏(2008年死去)が愛犬と戯れている姿が見えたりもした。現役の職人たちが洋服を作り上げるアトリエ内には、顧客の(体の)型が並べられており、オートクチュールの現場を実感することができる。そんな格別な環境の中に一時的でも身を置く自分が、今ここでできることはないのか、と自問した。


「自分デザインのジャケットを型紙から縫製までYSL方式で、作ってみたい」。




自身に課した目標

 オートクチュールメゾンによって、一つの洋服を作り上げる手法はそれぞれ微妙に異なる。ジャケットをYSL方式で作っていく際に、それまでの2週間で行ってきた立体裁断の訓練が大いに役立つことになるのだが、残り2週間の研修期間で完成させるのが不可能なのは明確だった。そこでシェフが、研修期間を一か月延長するよう学校に掛け合ってくれた。


表地も裏地も芯地もボタンホールもほとんどが手縫い。黙々と自身に課した課題に向き合う佐藤さんのひたむきさに心を打たれたのか、それまでは静観していたアトリエの熟練職人たちも、徐々に手を差し伸べてくれるようになった。「ここはこうするんだよ」、「こう収めるのがYSL流よ」。それらの秘伝の職人技も、忘れないため全て絵に描いて反復した。こうして一か月があっという間に過ぎたのだが、ジャケットはまだ完成していない。「コウジのジャケットがまだできていないんだ」。シェフが再度学校に掛け合ってくれて、研修期間がまた一か月延びた。

最後の仕上げ、ボタン付けをする日の朝には、「ここから好きなのを選びなさい」と、シェフがYSLの所蔵ボタンを「プレゼント」してくれたのだとか。




パリコレショー制作の現場へ

 オートクチュールでの研修を無事終えたのち、YSL社のプレタポルテ部門で更なる研修をしたい旨をシェフに伝え履歴書を準備していた矢先、校長から電話がかかってきた。


「コウジ、至急エルメス(以下H社)の面接に行ってくれるかい?」


エルメスのアトリエでの面接には、それまで温めていたデザイン画や、YSLで作ったジャケットを持参。当時、前衛的なビジョンでファッションの概念を覆し、世界中から注目を浴びていたデザイナー、マルタン・マルジェラ(以下MM氏)がクリエイティブディレクターを務めていたこともあり、どうしても研修をしたかった熱意が伝わったのか面接に通り、急遽H社での研修が始まることとなった。




アトリエで2週間ほど研修をしていた頃にデザインスタジオから「デザインとパターンの知識があるアシスタントが欲しい」という要望があり、スタジオ付けでコレクションの手伝いをするようになる。ファッションショーの手伝いに回ることになった頃、フィッティングに呼ばれ、MM氏及びH社の執行役員たちが注目する中で、モデルが纏ったパンツの裾直しを頼まれたときには、「今思えばとても簡単な事なのに、当時は緊張のあまり全身冷や汗をかいた」と苦笑する。その後「日本人的」な精密さで、モデルのキャスティング、ショーの下準備、バックステージのスタッフとして経験を重ねるうちに、研修期間も限界まで延長してもらっていた。「これ以上は研修は伸ばせない、どうしよう」と悩んでいると、「契約社員にならないか」と提案されたのだった。


アシスタント・デザイナーになりたい

 H社では、2シーズンのパリコレを経験した。色々な人からの意見を聞き、熟考した上でデザインを決定していたMM氏は、デザインについても「コウジ、どう思う?」と相談してくることもあったのだとか。自身のインタビューなどには一切答えなかったMM氏から直接洋服、そしてブランドに対する独自の視点や考えを聞けるという稀有な体験が出来た。


MM氏の元で、服のクリエーション、そしてコレクションの仕事に携わることが出来た佐藤さんは、パリで「デザイナーとして働きたい」と真剣に考えるようになる。H社では、新規のデザイナーの雇用は募集していないと聞かされ、興味のあるいくつかのパリ発ブランドにデザイン画と手紙を送った。その中に、ミッシェル・クラン(以下MK)社があった。


数日後、MK氏本人から面接をしたいとの連絡があり、そして10日間のアルバイトという形で、MK氏の絵を工場発注用に描き直す仕事を与えられたのだ。「絵を描く仕事で給料がもらえる!」。



アルバイト期間も無事終わり、「もっと働かせてほしい」と頼み込むと、テスト期間として3か月間研修できることになった。黙々と真面目に働いた結果、「アシスタントデザイナーとして迎え入れたい」と提案されたのだが、ここで立ちはだかったのが滞在許可証問題。外国人を雇用するためには、「この人でなければだめ」という明確な理由と雇用側の強い意志を証明しなければならない。佐藤さんのために新しい役職を作ってまで彼を迎え入れようと覚悟を決めてくれたMK社は、お金も時間も費やしながらも佐藤さんのVISA取得のために動いてくれたのだった。




服のデザインだけではなく

 2003年、晴れて正社員としてMK社に迎えられた佐藤さん。当時は全てが手描きの時代。描いてコピーして切って貼ってを繰り返し、腱鞘炎にもなった入社当初だったが、次第に佐藤さんがイメージするMKのデザインも提案できるようになり、それもぽつぽつと採用されるようになっていった。2004年の春夏コレクションで、自分のデザインした服を纏ったモデルがパリコレのランウェイを歩く姿を見たときの感動は、「今でも忘れられない」。


仕事においては、感情の起伏が激しく、良い意味でも悪い意味でも正直な会社内外のフランス人相手に、聞いて理解はできても言い返せない仏語のストレスに悩まされた。実生活では外国人として差別の対象となることもあり、嫌な思いもしたけれど、モード業界ではKENZO、コムデギャルソン、ヨージ・ヤマモトといったブランドの活躍もあって、日本人は一目置かれるようになっており、「ありがたかった」という。


MK氏の信頼を得るようになってからは、日本のアパレル商社との窓口にもなり、ライセンス商品(小物、アクセサリー、雑貨等)のデザインも幅広く手掛けるようになる。25歳の若さでの苦労もあったが、日本人相手の仕事においては、MK氏のパリからの代理として、同時に”日本人”として常に人間関係のバランスを保つことを考えながら挑んだ。





ミッシェルの元で学んだこと

 いずれは独立して、自身のブランドを立ち上げたい、とずっと思ってはいた。様々なプロジェクトに関わり、デザインも仕事の流れも十分に理解することができていた。しかし、心の準備ができていても「周りに支えは絶対に必要。一人では何もできない」と確信もしていた。そして、気付けば15年もMKの元で働いていた。



2018年7月まで、パリの人気セレクトショップ、モンテーニュマーケットで、MK社、MK氏と関わりや交流のあるクリエイター、アーティストなどの作品を一同に集めた『Mimi liberté x Montagne market 』というポップアップショップが展開され、佐藤さんも参加。会場でMK氏と。



パリでデザイナー職で働く場合、2-3年毎にブランドを渡り歩き経験を積みながらステップアップしてディレクター職に就くか、独立するかが通常である中、佐藤さんのように役職が変わりながら15年も一つのブランドに留まることは大変珍しいことである。独立のタイミングを見計らっていたのは確かだが、やはりそれだけMK社が魅力的だったのだろう。日本との関わりがあったのも、その一つ。また、デザインや企画に幅広く携わることができたのも大きい。MK社では、佐藤さん一人で複数の企画を担当することができた上に、自分のやりたいことをやらせてもらえる自由な社風もあった。そして、なによりも魅力的だったのが、MK氏の人との繋がりだ。彼が声をかけると、ファッションに留まらない各界のトップレベルのクリエイターたちが集結した。普段は会うこともできないような人々と度々仕事が出来たことは、他の会社では決して出来ない、佐藤さんにとってかけがえのない経験となった。





「パリが世界の中心だから」

 機も熟した2016年末に退職。2017年4月には自身のデザイン会社CREAFIDEMSを設立する。活動の拠点として選んだのは、やはりパリ。それは「パリがファッションの中心」だから。ゼロからモードを学んだ街・パリで勝負がしたい。グローバルな目線で自分のデザインを提案したい、と奮い立った。クリエイターとして、パリを拠点にデザインをしていくことの意味は大きい。パリは、歴史的に見ても新しいクリエーションを受け入れる土壌がある。良いものは良いと認め、伝統と新しいものが共存し、進化していくことを良しとしてきた歴史があるのだ。

これからの方向性を考えていた時、作家の辻仁成さんから、DESIGNSTORIES(彼が展開するウェブサイトマガジン)が伊勢丹新宿とコラボして、海外拠点の日本人デザイナーブランドを紹介する企画があるから、「出てみない?」と提案を受けたのである。「こんな素晴らしい機会、逃せない。やるしかない」と本格的に活動を開始する決意を固めた。



こうして佐藤さんが始めたのが、レザーバッグブランド。長年のMK社での洋服での仕事を一度リセットして新しい事にチャレンジするためにも、あえて洋服とは違うアイテムから始めたかった。また、既に人生の半分をパリで過ごしてきた佐藤さんの中には、日本人の自分だからこそ、パリで生み出せるものがあるはずだ、という自信も育っていた。




ありそうでないデザイン

 バッグのデザイン画を持参して、工場探しにイタリア・フィレンツェに向かった。「今までにないディティールをつくりたい」とハンドルのデザインにこだわりを絞った。高級ブランドを手がける工場でデザイン画を見せると「おもしろいな、これ。見たことがない」と興味を示してくれたオーナーの熟練職人が、早速試作品を作ってくれ、新規にも関わらず、契約してくれることになった。ブランドのアイコンとなるように、試行錯誤を重ね、ハンドルの切り替え部分のディテールを詰めた。「ありそうでない、だからといって実際持てないようなものはだめ」。それは、リアルクローズとして定評のあるMK社で長年勤めてきた佐藤さんが、決して譲れないこと。職人技が光るプロダクトでありながら、あくまでもファッションの一アイテムとして展開していけるもの。独特なカラーリング、素材ミックスなどにこだわったデザインのコレクションが誕生した。


こうして完成したバッグで挑んだ伊勢丹新宿でのイベント。一週間店頭に立って、お客様の生の意見を耳にする貴重な機会も得た。そして売り上げでも好成績を残しイベントを終了したのだった。



LIEN(ご縁)を慈しみながら

 佐藤さんのバッグブランドの、LIENDE(リアンドゥ 『—との縁、絆』という意味を持つ仏語からの造語)という名には、生きる上で人と人とのつながりが最も大事、と確信する彼の想いが詰まっている。「数々の縁に生かされてきたからこそ、感謝の意も込めました。これからは数人で共有できるアイテムも作っていきたい。家族で、恋人で…」。


学生時代。共に学ぶ仲間たちと



最近では、学生時代パリで夢を語り合った建築家の友人と、新しいプロジェクトの構想をしているのだとか。その話をする佐藤さんの目はキラキラと輝いていて、次から次へとアイデアがあふれ出てくる。「これも繋がり。作る側が楽しみながらやらないと、お客さんに伝わらない。たくさんの人たちと交わって、化学反応を起こして自分たちが本当に良いと思うものだけを世に出していきたい。時間はかかるかもしれないし、続けていくことは大変です。でもそれが自分が選んだパリでの人生…」:




パリは、「考える時間を与えてくれる街」。長年見慣れた街並みでもふとした時に「なんて美しいんだろう」と感動することが多々ある。こういった日々の感情を大切にするところから、新たなクリエーションが生まれるのかもしれない。数々のご縁をもたらしたパリという美しい街と彼との強い絆を感じずにはいられない。



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佐藤康司さんは、ウェブマガジン・デザインストーリーズで、ご自身のパリとの物語、今の時代、デザイナーを志す、ということなど、

ご本人の言葉で執筆されています。熱く、真摯な想いがひしひしと伝わってきます。当記事と併せて、是非ご参照ください。http://www.designstoriesinc.com/panorama/koji_sato1/

佐藤康司さんご用達の店

オートム

秋重シェフのフレンチレストラン。シェフと奥様の暖かい雰囲気に癒されながら、食する繊細な料理とワインは最高。秋からのジビエが楽しみ。

Automne

11 Rue Richard Lenoir, 75011 Paris

Tel 01 40 09 03 70

営業時間 12時-14時半 / 19時半-22時半 (火-金)

19時半-22時半 (土) 18時半-22時(日)

ソリレス

土井原シェフのフレンチレストラン。行くたびに進化している料理にいつも刺激を受ける。ご夫妻との会話も楽しみの一つ。

Sot l'y Laisse

70 Rue Alexandre Dumas, 75011 Paris Tel 01 40 09 79 20

営業時間  12H00-14H / 19H30 – 21H30(火-金)

19H30 – 217H30 (月土夜のみ)

日曜定休


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お知らせ

LIENDE PARIS 2018-19AWコレクションは伊勢丹新宿店4階プライムガーデンにて10月以降展開が予定されています。

伊勢丹新宿店

〒160-0022 東京都新宿区新宿3-14-1

Tel 03-3352-1111

商品のお問い合わせは

又は

LIENDE PARIS

日本国内ディストリビューター株式会社元林東京支店まで

Tel 03-3639-3501 / 080-3023-1217



Remerciements:

Koji Sato

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